晩年になっても入水、水泳指導を欠かさなかったそうです。だから、周辺からは”水泳界の仙人”と言われていたとか。武蔵小金井の名門金田スイミングクラブのオーナー、金田平八郎先生が昨年12月14日に死去。享年85歳。その事を知ったのはつい数日前です。長年、水泳界に貢献した方ですから当然ですが、ネット上では先生を偲ぶコメントが沢山ありました。
先生の強烈な思い出は、1980年、モスクワ五輪選考会を兼ねた代々木オリンピックプールでの日本選手権最終日の出来事です。日本は米国に追随、モスクワ五輪をボイコットすることが決まってたので欺瞞的な消化試合でした。先生はつかつかと前へ出て、貴賓席に陣取った水泳連盟役員をプールサイドから指先、「貴方達が日本の水泳界をダメにしている」と大声で非難。私ら若手コーチたちは先生の怒りと無念さ、そして勇気ある行動に感激。胸がスーッとした事です。
有望スイマーを沢山輩出した世田谷の東田中。中学教員を辞職(1965年)。大坂へはせ参じた山田スイミングクラブでの挫折。東京サマーランド他でのジプシー練習の屈辱(1968年)。一念発起。周辺の支援協力で建設された自前のプールでの再出発(1971年)。そして水泳コーチとしてもクラブ経営者としても成功への階段を登っていった1970年代。日本水泳復興へ掛けた先生の情熱と執念が頂点に達したのが1980年だったのではと思われます。私はその後、先生とお会いすることは一度もありませんでした。
もう一つ思い出に残る事は、先生が密かにライバル視していた米国の名コーチ、ジョージ・ヘインズ(George Haines)に関することです。先生より2歳上。ヘインズ氏は高校物理の先生。共に体育界系ではないが教職出身者。水泳指導の考え方や選手育成の仕方にどこか共通項が多い。ヘインス氏は25年間も君臨した名門サンタクララを去る1973年。全米水泳コーチ協会(ASCA)の年次総会でスピーチします。生涯一冊の競泳本も書かなかったヒトです。その時の講演録を入手。当時、極めて貴重な資料でした。そのコピーを東京体育館プール(千駄ヶ谷)での日本選手権で先生へ手渡しました。「今野クン、ありがとう」と万遍な笑顔で何度も礼を言われました。先生は東田中時代、英語の先生でしたから、分厚い講演録コピー(英文)をペラペラと捲り、”スゴイね”と一言。何度か試合会場で昼弁当をご一緒したことはあります。が、「ウチに一度遊びに来なさい」と夕食に誘われたのですが、まもなく私は水泳コーチを辞めることになり、ついに実現しませんでした。
金田先生の「心」のライバルだったジョージ・ヘインズ氏は2006年死去。享年82歳。1988年まで生涯一現役コーチを貫きます。オリンピックへ出場した教え子たちは総勢53人。彼らが獲得したメダル数はなんと68個。うち金が44個、銀が14個、胴が10個。金田先生もヘインズ氏も若手コーチの面倒をよく観たこと、反骨精神が旺盛だったこと、そして、ハンサム・ガイ(イケメン)だったことも共通項の一つです。
“昭和”の水泳コーチ逝く。遅ればせながら、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
松田が絶対の強さを見せた男子バタフライ200メートルではほぼ無名の24歳、金田和成(金田SC)が2位に突っ込んだ。実力者の佐野、坂田をかわり、1分55秒65の派遣標準記録もクリア。初の五輪切符を手中にし「夢のような感覚」と目をぱちくりされる。
祖父が経営する都内のスイミングスクールで育った。高校時代に肘を粉砕骨折。法大に進学した後も肘が伸びきらず、何度も引退を勧められたという。就職活動もしたが、五輪の舞台をあきれめられなかった。
171センチの小さな体をムチのようにしならせるスイマーは「僕の強みはキックの強さ」。指導を受けた祖父は昨年12月に他界。「おじいちゃんは出場だけでは満足してくれない」と話し、さらなる成長を誓った。
2012/04/08 日経新聞